瀬戸のやきものの歴史

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赤津焼の歴史の前に瀬戸の歴史、特に瀬戸焼の本業焼(陶器)の歴史をなぞってみたいと思います。

須恵器と瀬戸の地名

陶(トウ・すえ)と言う字は中国では窯の事を示しており、陶器とは窯で焼かれた器のことで、やきもの全体のことを指しています。

瀬戸は「すえ(陶)のところ(所)」が「すえと」になり「せと」になったと言われており、「瀬戸」と言う漢字の地名は、14世紀の文献に登場しています。

やきものの事を「瀬戸物(せともの)」と言うことから、「瀬戸のやきもの」が 「せともの」と思われているところがあり、瀬戸がやきもの本家本元と言われることがありますが、「瀬戸」よりも先に「陶(せと)」の言葉があるので順番が逆のような気がしますね。

瀬戸市と豊田市

瀬戸市の隣にある豊田市は、もともと「挙母(ころも)」と言う地名でしたがトヨタ自動車の本社工場があったので豊田市に名称を変更しました。もしかしたら豊田市にあるからトヨタ自動車と思っている方もいるのではないでしょうか?

なんとなく瀬戸の名称決定と似たような地名の街が隣同士となっているもの面白いですね。

瀬戸の陶祖「加藤四郎左衛門景正」

瀬戸には昔から陶祖「加藤四郎左衛門景正」(通称藤四郎)の開窯伝説が伝えられています。

貞応2年(1223年)に道元(曹洞宗の開祖)に従って宋(中国の王朝)に入り、釉薬を用いた作陶技法の取得した後安貞2年(1228年)に帰国。その後、作陶に適した土地を全国で探しまわり、仁治3年(1242年)に瀬戸で理想の土とみつけてこの地に窯を開いた。

古くから伝わる陶粗伝説をベースとしてに瀬戸の窯業の歴史や窯の分類などが行われてきましたが、近年の発掘調査による考古学研究の成果と陶粗伝説には矛盾する要素が多く発見されました。現在では陶祖伝説は伝説として受け止め、全てを否定するのではなく歴史資料の一部として考古学研究とあわせて瀬戸の窯の歴史や陶祖伝説の生まれた背景を明らかにしていくことになるでしょう。

美濃焼と瀬戸山離散

国宝の志野茶碗(銘:卯花墻 うのはながき)など、今に残る桃山時代の茶碗には名品が数多く存在します。その中には瀬戸黒や黄瀬戸など「瀬戸」と名前のついたものが有り、これらは瀬戸で焼かれたものだと思われていました。

近年になって、窯の発掘調査などからこれらの器が美濃(岐阜県多治見市・岐阜県土岐市などの東濃地方)で焼かれたことがわかりました。

藤四郎以降本格的な施釉陶器を焼くことができる窯は瀬戸だと言ってよく、灰釉や古瀬戸釉(鉄釉)は高級品として広く流通しました。しかし、室町後期から戦国時代になると戦乱に巻き込まれ、避難するように陶工たちが瀬戸から離れていきました。これを瀬戸山離散と言います。

 

美濃には良質な土と、窯の燃料となる木材が豊富にあったことから、すでに瀬戸から移った陶工に呼ばれる形で沢山の陶工が移っていきました。そこで瀬戸の陶工たちによって焼かれたのが桃山時代の名品です。

瀬戸山離散

瀬戸山離散は戦禍による避難と考えられてきましたが、そうではないと言う意見もあります。当時は織田信長が美濃を攻略し居城を岐阜城に移し変えた時期でもあり、それに伴い流通名で有利な美濃に窯が移っていったとも言われています。窯を開くには土も必要ですが、窯を作るための適度な斜面、燃料となる薪の確保も必要です。そのような意味も含めて美濃に移っていったような気がします。(なんとなくですが、瀬戸の里山には大きな木が少ないように感じます。燃料として切られた名残でしょうか?)

尾張藩御用窯と赤津焼

徳川幕府が開府し江戸時代になると、名古屋城を中心とした徳川御三家の尾張藩が作られ始めました。この尾張藩への陶器の供給源や御用窯などを目的として、徳川幕府により美濃から陶工が呼び戻され瀬戸村、赤津村、下品野村に窯を開きます。この後、赤津焼は尾張藩の御用窯と高級茶器から日常品までを作っていくことになります。

加藤民吉と染付焼

御用窯として陶器を作っていましたが、他の産地や、九州の磁器などに押され大きく発展することはありませんでした。

そのころの瀬戸では、過剰生産をによる値崩れ避けるため陶家一軒につき、ろくろ1つの制限がありました。そのため、家長以外の兄弟は陶工になることが出来ませんでした。

当時尾張国熱田新田の開墾奉行だった津金文左衛門胤臣が、陶家の次男であった加藤民吉に磁器の研究をさせ、磁器の窯を熱田に開こうとしましたが、瀬戸の陶器に影響があると反対がおこり、やむなく瀬戸にて陶家の次男以下にやることになり、陶器を本業、磁器を新製と呼ぶようになりました。

磁器生産を始めましたが、思うようなものを作ることが出来なかったため、加藤民吉が磁器の最先端である有田の技術を習得するため旅立ちました。

加藤民吉は身に危険を案じながらも、3年後には瀬戸に戻ることが出来、瀬戸の発展に大きく貢献しました。加藤民吉はその3年後53才で卒去しました。

その後の瀬戸では、陶器を凌ぐ染付磁器の大産地となり、現在に至っています。

せともの祭の涙雨伝説

せともの祭は加藤民吉を祀る瀬戸の最大のお祭りです。現在は毎年9月の第2週の土日に行われますが、以前は第3週に行われていました。

加藤民吉は九州へスパイに行ったときに、向こうで妻と娶りましたが、瀬戸に帰ってくるときに九州に妻を残してきました。そのため、せともの祭の日には、九州に残してきた妻の涙で雨になると言われ、実際に雨が降ることが多かったです。

もともと、9月の第3週あたりは台風の影響などで雨が多い時期となるためこのような伝説が後で付いたのだと思います。いまは第2週にずらしたので以前よりも雨は少なくなりましたが、その分残暑が厳しくなりましたね。